政治権力の研究(2)情報とマスコミ

 前回、「ビデオが壊れた」と書き、「真面目に慎ましく生きている俺がどうしてこんな仕打ちを受けなければいかんのだ」と憤ったが、今度はパソコンが壊れてしまった。これにはもう自失呆然である。思えば今年は8月に眼鏡が壊れ、9月にビデオが壊れ、11月にパソコンが壊れてしまった。そう言えば10月にまたしても虫歯が見つかった。やはり奴等は鳩山首相の後を受けて首相に就任した俺を殺そうとしておるのだ。
 で、話は変わるが「特権階級は必ず腐敗する」というが、今や「特権階級」など存在しない。政治家や官僚は政権交代可能な政治体制の中で既得権益を剥ぎ取られ、国民の視線に緊張を強いられ、銀行や農協や大企業はグローバル経済の荒波の中で護送船団方式と決別し身銭を切らなければならなくなった。今まで既得権益護送船団方式に守られてきた当事者たちにとっては大変不愉快な事だろうが、基本的にはそのように常に緊張と競争をもって仕事をしていくのはいい事のはずである。そのようなプレッシャーが新たな成功を生むのだし、戦後の日本を支えてきた中小零細企業と庶民はとっくの昔からそのような厳しい競争に耐えながら今日の地位を築いてきたのだ。
 しかしながら最近とみに感じるようになったのは、「最後の特権階級」とでも言うべき集団がまだ日本に残っていて、しかもそれが政治プレイヤーと密接な関係を持っているということである。最後の特権階級と言ってもいい「マスコミ」(2ちゃんねる風に言うとマスゴミ)は政治の構造が変わった現在でも相変わらず護送船団方式既得権益のぬるま湯の中に浸り、政治家や官僚に操られているように見えて仕方がない。
 報道というものを社会学的(あるいは純学説的)にどう言うのかは知らないが、「誰がああ言った、誰がこうした」と伝えるだけでそれが報道とはとても思えない。なぜなら政治家も官僚も常に情報戦にさらされているなかで、自分の有利な情報は大声で目立つように広め、自分に不利な情報はできるだけ小さくそして何か大きな事件の片隅で目立たぬよう、しかし「俺はちゃんと言ったよ」と主張できるような絶妙なタイミングで素早く流すのが普通だからである。「〜が関係者の話でわかった」というお決まりのリークなどその最たるもので、そのような曖昧なリーク情報を新聞やTVに流すことでそれは既成事実化され、流した本人はニヤリとする。まさに権力者の思うツボであって、それに気付いていないのならば阿呆を通り越して白痴である。
 薬物犯罪を起こした芸能人や殺人事件を起こした後2年以上も逃亡した男の逮捕劇は確かに面白いが、しかしその間も政治は動き国会は動いている。マスコミを賑わす事件が起きるのは大抵国会が開いている時で、なぜかと言うと国民の注意をそらすためである。それにマスコミは気付かず、視聴者も気付かない。権力者の思うツボである。しかしながら総務省による許認可権に守られ、記者クラブ制度で更に守られているマスコミにはそんなことはどうでもいい。新製品を開発しなければ倒産するかもしれない民間企業とは違うからである。今まで通り政治家や官僚の発した言葉を右から左へと流し、警察が教えてくれる大事件を追って警察が教えてくれた場所でカメラを回せばそれが商売となる。民主党政権が「官僚の記者会見中止」を打ち出した時にマスコミが反発したのはそれによって自分たちの仕事が減るからであり、ひいては自分たちの存在を軽んじられたと感じたからである。特権階級が一番頭にくるのは、「自分たちの仕事を軽く見られた時」である。
 官僚は選挙で選ばれた政治家ではないのに行政権を握り自分たちが行政権を行使することで「この国を動かしているのは自分たちである」と驕り、90年代にその威信は地に堕ちた。マスコミもまた、選挙で選ばれた政治家ではないのに自分たちが発信する情報が国民を一喜一憂させることから自分たちは普通の民間人とは違う「特権的な存在」と勘違いし、政治家や官僚と四六時中行動を供にすることでその勘違いを更に強くした。本当の話、これから政権交代によって目まぐるしく政権が変わることはマスコミにとっていい事ではない。マスコミではなく国民に直接向かい合うようになればいずれ公共の電波を使用しているTV局も攻撃の対象になるだろうし、再販維持制度等の硬直した新聞・出版業界にもいずれ大鉈が振るわれるであろう。マスコミはもはやどこかで見たような「圧力団体」に成り下がる。しかし組織票をバックに持つ自民党公明党が完膚なきまでに倒されたように、マスコミも近い将来に倒されるであろう。そのようにして政治権力と情報とマスコミの関係もまた、動きはじめるのである。