暴走と迷走の政治

 西松献金事件の衝撃で皆すっかり忘れているが、麻生首相は「郵政民営化には反対だった」と言った。これと前後して鳩山総務相は突如「かんぽの宿」問題で騒ぎ出し、小泉元首相まで出てきててんやわんやとなった。その後、西松献金事件の影響で内閣支持率が上昇するとこの騒ぎは小休止となり、「小沢辞任−鳩山新代表」の発足により支持率が危険水域に入るとまた騒ぎ出し、鳩山総務相は辞任に追い込まれた。茶番である。
 何が茶番かというと、当初麻生は「かんぽの宿」問題を契機として郵政民営化推進派と反対派に分裂させることで「小泉劇場」以来の政治ショーを演出しようとしていたにもかかわらず、鳩山総務相が自分の思うように動かなり(当初の想定より過激になった)、郵政民営化賛成派・親小泉勢力も自分の思うように動かなった(当初の想定より過激になった)途端に切り捨て、事態の収拾をあきらめたからである。だから国民には一体どうなっているのかわからない。解散権を持つ日本で唯一の人物が目的もなく政治をやっているものだからこうなる。要は政治プレイヤーが暴走しているだけだ。
 制限速度40キロのところを80キロで走れば暴走であるし、制限速度80キロのところを40キロしか出さなければこれもまた一種の暴走である。現在の政権はそのような状態にある。西松事件かんぽの宿問題で暴走しておきながら、解散についてはいつまでも決断せずのらりくらりと迷走を続けている。
 政治には力が必要である。「力」という言い方が古ければ「自らが組織を率いていくための有効な手段」と言い換えても良い。常に新しい情報を求めるマスコミはすっかり忘れているが、麻生は総裁選で「反小泉」色を鮮明にすることで圧勝したのに、かんぽの宿問題では結局親小泉勢力に屈した。結果として麻生はどちらにも力の源泉を求めることができなくなった。そうなれば、もやはその場その場のパフォーマンスにのみ終始して暴走を止めることはできない。そして日々が極めて漫然と過ぎてゆく。これがこの国の政治の姿である。
 派閥がなくなったとしても、「党内で一定の勢力を有する」ことの有効さは今でも生きている。このことをマスコミはおろか政治家でさえ忘れている気がしてならない。関係各方面への気配りや情報収集、そしてピンチの時に盾となって守ってくれる自前の勢力がなければ政治などできない。だからこそ小泉は清和会や参院橋本派という大派閥の力を最大限に活用したのだ。麻生など20人に過ぎない小派閥の身であるのだからもっと派閥に頼らなければいけないところをただ自分の選挙を応援をしてくれたという理由で他派閥の鳩山邦夫総務大臣にし、派閥という強い絆で結ばれいていないから騒ぐだけ騒いで辞められたのである。要所要所に最適な人材を置かなければチームとしての機能は働かず、ただ個々人が勝手に動き出して暴走するだけだ。政治はスーパーマンがやるわけではない。我々と変わらぬ愚かな人間が行うのである。
 暴走・迷走しているのは政治家だけではない。マスコミに昼夜を問わず流れる政治評論もどきの言葉も暴走しているのであって、政権交代という民主主義の最大の武器を検察によって阻止されようというのに、「それよりも政治とカネの問題が大事だ」と平気で語りそれに誰も疑いを持たない姿は異常である。その光景を見て俺は恐ろしくなった。このままでは「任期満了となっても百年に一度の経済危機だからしばらく選挙はしない」と言われても皆納得するのではないか。国民一人一人が「民主主義者であること」を意識していないからこうなる。またあれだけ「小泉改革が日本を悪くした」と言いながらまだ「首相にふさわしい人」のトップに小泉が躍り出るというのはどう考えても異常である。何度も言うが、「政治を国民に身近なものに」と主張するということは今の国民レベルで政治を行えということである。とすれば首相を二年連続で投げ出すことは今の日本人の特徴が出ていいということになろう。結局支離滅裂なのだ。
 この国の政治に「国民」は存在しない。存在するのはただ「投票権を行使する人」である。自分たちが小泉を選んだことを忘れ、参議院選挙では民主党を選び権力を真っ二つに分断したことを忘れ、いつまでも「政治とカネ」を血眼になって追い続け、結果官僚に操られている。官僚が力を持っているのは言うまでもなく自民党立法府)と官僚(行政)の二人三脚によるものであり、だからこそ政権交代明治維新以来の官僚支配体制を破壊する唯一の、そして最大のものなのである。その事に気付かず、「やはり政治とカネの問題が先だ」と言い続けるのだろうか。