怨念の系譜/早坂茂三[集英社:集英社文庫]

 幕末、越後長岡藩河井継之助という豪傑がいた。「長州の高杉晋作と東西の双璧と称せられ、真の武士」とまで言われ、藩の財政改革、組織・人事改革はもちろん軍隊の整備・兵制改革に着手し、その強力な先見性、決断力、実行力、情熱から広く将来を期待されたが、折からの明治維新によって新政府軍と戦うことを余儀なくされる。河井は新政府軍を薩長勢力の私軍と見ており、内戦によって民衆に大打撃を与え国力を消耗するのは得策ではなく、坂本龍馬が提唱した「公議政体論」を支持していた。だが血気にはやる若き薩長勢力は錦の御旗を盾に「恭順か、抵抗か」の二元論に固執し、河井は旧幕府軍・奥羽列藩同盟の傘下に入る苦渋の決断を下す。そして戊辰北越戦争が始まるのである。
 戊辰北越戦争による新政府軍の兵力は三万、対する奥羽列藩同盟軍は八千である。事実上の総司令官である河井は地の利を生かして攻守巧妙に行い、後に石原莞爾が絶賛した「今町攻略戦」により新政府軍を翻弄するが、やがて山縣有朋率いる新政府軍総攻撃により悲劇の結末を迎えることとなる。その後、薩長勢力が支配する明治新政府により旧奥羽列藩同盟諸国は冷遇され、半年も雪に埋もれて行動を制約されるような壮絶な住環境の中で河井の無念と越後長岡藩の民衆の怨念を晴らすかのように山本五十六田中角栄という日本史上の巨頭が現れることになる。
 明治期、旧奥羽列藩同盟諸国には軍人や官吏への道を目指すものが多かったという。朝敵の汚名を晴らし、故郷を惨劇の地へと追いやった薩長勢力が牛耳る政府を変革するためにである。山本五十六もまた、「薩摩の海軍をやっつけるため」に海軍へと入る。そこでイギリス海軍の伝統を受け継ぐリベラルな思考を身につけ、海外赴任により国際視野を広め、当時常識であった艦隊主義から航空部隊への転換の必要性をいち早く見抜いている。
 山本が海軍の中枢に参画したのは1936年12月である。この年2月の二・二六事件によって陸軍は事実上権力を握り、井の中の蛙である陸軍は日独伊三国同盟固執、海軍やマスコミも熱病のように踊らされるが山本らはそんなことをすれば英米との対立が決定的となるとして断固反対するが、河井が荒ぶる薩長勢力に押して押して押されてしまったように山本もまた最終的にこれを認めさせられてしまうのである。そして日米関係は当然のごとく悪化、有名な「一年なら存分に暴れてみせますが、それ以上は保証できません」の言と共に山本自ら育てた航空部隊によって真珠湾奇襲に成功、一時は東郷平八郎と並び称されるほどになるが、その結末は言うに及ばない。
 だが河井・山本に続いてまたしても新潟から日本政治の主役が誕生した。田中角栄である。こうなると田中角栄語り部である作者の独壇場であるが、田中は地元の森羅万象にわたる陳情を重く受け止め、その実現に全力投球することを何よりの第一とした。「現代は陳情の時代だ。陳情という言い方が悪ければ、主権者の提言と言ってもいい。マスコミは陳情をいけないことのように言うが、それは旧憲法的思想であり、物の見方が逆立ちしている。国民が立法府や行政に対して、あれをしてくれ、これをしてほしいと陳情するのは、株主が取締役会に対して累積投票権を要求するのと同じことだ。主権者の請願、陳情は憲法上の大権と言っていい」。ここでも薩長政府が築き上げた明治新政府の中で貧乏の限りを尽くし、怨念となった民衆の想いを背負って出てきたのが田中角栄だということがわかる。
 首相にまで登りつめた田中の時代は国際関係が大きく変わろうとしていた時でもあった。米ソの緊張緩和と米中和解、中ソ対立と多くの課題がひしめいていたが中東戦争で日本外交は苦境に立たされた。日本は石油のほとんどを中東産石油に頼っており、アラブ諸国が「非友好国」と見なせば供給されないのである。その最中、イスラエル寄りのアメリカ・キッシンジャー国務長官田中首相は会談した。
「日本は石油輸入の80%を中東に頼っている。これを切られては日本経済の命脈が尽きる。アメリカは日本に石油を供給してくれるか」
「それは国務長官がかかわる問題ではない」
 そして田中はアラブ支持を発表、独自の資源外交のため頻繁に各国を訪問することになるが、これがアメリカの逆鱗に触れてロッキード事件につながるかどうかは謎である。だが時の首相は田中角栄が唯一認めた政敵・三木武夫である。アメリカ・上院外交委員会公聴会でのコーチャンが「ロッキード社がトライスター旅客機を売り込む際、複数の日本政府高官に政治資金を渡した」と発言、これを田中打倒、三木内閣延命の好機ととらえた三木は「事件の解明は全ての政策課題に優先する」として田中逮捕への幕が開くのである。この時田中は作者に対し、「おい、トライスターとは、どういう意味なんだ」と真面目に聞いてきたという。
 作者は田中側の人間である。その作者がロッキード裁判を否定するのはたやすいが、この時期の「田中憎し」の空気が異常であったのは確かである。山本五十六を悲劇に追いやった日本人の根拠なき熱狂、一過性のテンション民族にして付和雷同性が強い性質に田中もまた追いやられた。それは純学術的な研究論文まで田中擁護となれば殺されるほどのものであった。汚名は拭われず、田中もまた悲劇の結末を迎えた。
 幕末から現代に至るまで、この日本には虐げられ、蔑まれ、冷や飯を食わされた下層階級の怨念が蔓延している。下層階級が華々しい成功を収めるのは一瞬のことで、すぐに従来のエスタブリッシュメント階級に潰されるのである。地方と都会、労働者と資本家、庶民とエリート、負け組と勝ち組、日本と米国。それでも我々は戦い続けなければならない。作者の本はいつでもそうだが、読む者に静かな勇気を与えてくれるのである。