平成・日本の官僚/田原総一朗[文藝春秋:文春文庫]

平成・日本の官僚 (文春文庫)

平成・日本の官僚 (文春文庫)

 イヤッホー。またしても面白い本を読んでしまいました。まあ面白いと思われる本を選んで買っているのですから面白いのは当たり前なんですがやっぱりいいもんですな。読んでる間はワクワクドキドキで読んだ後には達成感、こんな快楽はできるだけ人に教えない方がいいというわけで本書は去年の9月13日19時52分にBOOKOFF秋葉原駅前店で105厘にて買ったものである。書いたのは毎週毎週嫌でも顔を見てしまう田原総一朗爺である。ちなみに総一「朗」ですからね。「郎」ではなくて。
 題名に「平成」と書いてあるが本書が発行されたのは1990年であり、本書は1990年現在の日本の官僚についてレポートしているわけであって、その後のバブル崩壊住専問題や薬害エイズ問題や小泉構造改革消えた年金によって完全に権威が失墜してしまった官僚を見る目でもって本書を読むわけにもいかんのである。ここが政治系の本を読むときに苦労するところだが、それによって政治の変遷を辿ることもできよう。
 とにかく「官僚」というと今や悪の代名詞となってしまったが、だからと言って官僚なしのボランティア手弁当で行政が成り立つわけではない。官僚は必要なのである。市役所の窓口等の末端の行政事務処理なら官僚でなくともできるが、政策の基本計画や各所との調整や実施への手立てなどは最終的には国会や大臣や首相が裁可するとしてもその実務の大部分は官僚が実行するわけであり、その為には優れた頭脳と手練手管を持ったエリート官僚が必要となろう。
 もちろん理想的なのは総司令官として政治家が陣取り、総司令官たる政治家の命令で実務部隊=官僚が動くことである。ただし日本という国の官僚制度の厄介なところは稀に見る閉鎖体質である上に情報の発信も受信も官僚が握っているということであって、政治家はまずそのような官僚と人脈を作ることから始めなければならない。そうして官僚は政策実現のため力のある政治家・党や業界や世論に影響力のある政治家を見極めてその政治家に擦り寄ってくるのであって、そこで政治家の官僚に対するコントロールやリーダーシップが発揮されるというのが現実なのである。この現実を打ち破るためには省庁別採用の廃止や政治任用の大幅増や政権交代日本民族官尊民卑的文化の転換が必要であるがまあそれは別の話として、本書では官僚がいかに苦労して日夜政策の実現に奔走しているかが書かれていて、なるほど腐っても秀才は秀才だなと時に感心させられた。
 例えば本書に出てくる運輸省を見てみよう。経済性など無視して自らの選挙区に新幹線をつなげようと躍起になる政治家に対し運輸官僚は当然反対するわけであるが、政治家たちの攻撃はすさまじく1982年9月に全面凍結とされた整備新幹線計画は1987年1月の閣議で凍結解除となる。ただし凍結解除と見出しは威勢がいいが中身は「新会社(JR)の判断を尊重し、財源問題・収支見直し等を慎重に検討の上取り扱いを決定する」という非常に玉虫色のものであって、このあたりは目の前の派手なエサでマスコミを騙すという今現在も続く官僚の目くらまし常套手段である。だが竹下首相が「ふるさと創生論」を唱えると新幹線推進派議員は「ふるさとを創生させるには地元に新幹線を整備させよ」と再び大攻勢に出る。時を同じくして突如大蔵省は「リニアモーターカーの開発技術調査費」として1億7千万を予算に追加計上するという奇妙な行動に出る。これは石原慎太郎運輸大臣の無責任な放言(今もよくあるな)に応えたものであって、現在でもそうだがとにかく財布の紐が固い大蔵省がいきなりポンと1億7千万を気前よく出すわけであるから当然裏があった。「リニアモーターカーで金は取ったから整備新幹線は先延ばし」という大蔵省の戦略に運輸省が乗ったのである。整備新幹線を本格的に着工させるとすれば五兆はかかるがリニアモーターカーの開発技術調査費は1億7千万ですむ。だがそれで運輸省は納得するかもしれないが自民党は当然反発し、小渕恵三官房長官を座長とする「整備新幹線建設促進検討委員会」が1988年1月に設置されるのであるが、「促進」と「検討」の文字が並んでいることから分かる通りここでも官僚の狙いが見て取れる。とは言えボルテージが上がる一方の政治家たちを抑えるため運輸官僚が取った手段とは…と、ここまでにしておこう。これ以上糞下手なあらすじを書いてしまっては面白いはずの本書が面白くないものになってしまう危険性があるというわけで皆さん是非読んでみてください。それでは。