僕のうちあけ話/三田誠広[集英社:集英社文庫]

 ぬわはははははははは。安心なされい。安心なされい。いかに勧善懲悪の非現実的な小さな正義空しき精神論が跋扈しようともこの世に俺がいる限り諸君はそんなものに惑わされずにすむのだ。その通りオリンピックというものこそ偽善と虚飾に彩られた諸悪の根源であり我らが注目すべきはザ・コミックマーケットなのだ。とは言うものの日本中のマスコミが集まるとあっては「メジャー嫌い」をライフワークとする俺は尻込みをしてしまうので明日明後日行くかどうかは朝起きた時に考えようそうしよう。
 大体貴様という糞人間は阿呆のボケの変態の生きる意味がこれっぽちもないどうしようもない醜い生き物であるのに何をいっちょまえに本を読んでおるのかと言われても困るのである。しかも政治やラブコメにその魂を売ったとか言いながら純文学とかSFとか読んで一体何様のつもりだとも言われているがまあこちとら読みたいから読んでるのであって実にどうしようもないのであります。そんなにくやしいならどうぞお前も読みなさい、ただしその分合コンに行く時間とかバカメールを打つ時間はなくなりますからそのあたりをよく考えた方がいいですよ、と言ってみたいもんですなあ。
 500%ありえないことだがもし読書とか文学に興味を持ち始めた少年少女が俺に「どんな本を読んだらいいですか」と言ったら真っ先に挙げようと思っているのが三田誠広の「僕って何」である。確か70年代後半に芥川賞を取ったものであるが、恐る恐る「青春」という人生の階段を上ろうとしている少年少女にはぴったりの青春小説であって、俺も高校二年の時に読んだ(もう少し詳しく言うと1999年9月1日に兵庫県立明石図書館で読んだ)。舞台は学園闘争華やかな60年代末、東京の大学に通うため田舎から出てきた純朴な青年が学園闘争と闘争グループの内部分裂に翻弄されながらも恋人やら希望やらを見つけるという物語はナイーブな諸君の琴線に必ずや触れることであろう。
 で、本書はその作者が芥川賞を取った直後から半年程において書かれたエッセイであって、何せまだ一人前の作家になって間もないものであるから内容も薄く軽く、読み終わった後何も残らないというのがまさしく読み終わった後の俺の感想である。作者自身のひきこもっていた高校時代や結婚のことや子育てのことなどを赤裸々に書いてなるほど頑張ってエッセイを書いているなというのはよくわかるのだが、所詮は身辺エッセイでしかなく、作者のファンならば面白いであろうが(仏教との出会いや同時代の作家の分析等)俺としては「まあ100円で買ったからいいか」である。
 ただし一つ興味を惹かれたのは、1948年生まれの団塊の世代である作者が自身を「イデオロギーや戦争の記憶といったこれまでの世代の人たちにはあった共通の課題(作者はそれを「穴」と言っている)というものがなく、各々の作家が各々の課題を見つけなければならないなかで自分もまた書いていかなければならない」と芥川賞受賞から半年やそこらで既に明確に定義付けていることである。そのような意識は俺の理解するところによればまず最初に「内向の世代」の出現によって見出され、作者や中上健次村上龍村上春樹といった戦後生まれが頭角を現した70年代後半に完成されるのである。
 団塊の世代とは、戦争を経験せず、高度経済成長と学園闘争の中で育ち、「一流大学・一流企業」こそが良い生活の近道と信じて疑わずに育ってきた世代である。学園闘争で反体制を叫んでおきながら一流企業もおかしな話だが、それについては戦後史を辿る長い長い説明が必要となるので割愛して何が言いたいのかというと俺の両親は団塊の世代なのである。父は作者と同じく1948年生まれであり、母は村上龍や安部前首相と同じ1954年生まれである。最も父は中学卒業後集団就職で大阪に出てきたまごうことなき中卒であり、母も三流高校卒であって、作者とはその知的レベルにおいて話にならないが作者の文章を読んでいるとなぜか懐かしいような気がしてくるのである。それは今や「古き良き日本」となった団塊の世代の思い描いていた日本の香りがするからか。単純に両親と同世代だからか。やはり色んな本を読むと色んなことを考えてしまいますなあ。
 それと「女は後ろから髪を引っ張られると興奮する」ということですので、今度是非引っ張ってみよう。