宇垣一成/渡邊行男[中央公論社:中公新書]

宇垣一成―政軍関係の確執 (中公新書)

宇垣一成―政軍関係の確執 (中公新書)

 とりあえず今言えることは俺はすっかり第二次大病戦争に取り囲まれたということであってそこから導き出される結論は何か。ああ見える見える「死」が見える、ということなら俺はどうすべきか俺もお前も誰も知らんのならば一体俺は生きているのか死んでいるのかそしてそんな大事な時にただ本を読むだけという俺は天下の糞阿呆である。さあ死ねすぐ死ね今死ね。ああ死にました死にました。でも生きています。むわははは。
 いわゆる「善玉軍人」と聞いて諸君は誰を思い浮かべるであろうか。米内光政、山本五十六岡田啓介と色々あるだろうが、恐らくほとんどが海軍軍人であろう。合理主義が徹底され「ユーモアを解さなければ海軍にあらず」とまで言われる海軍と「竹槍さえあれば勝てる」と吠える陸軍では無理もないが、その陸軍にあって宇垣一成だけは昔から人気があるように思える。宇垣は第一次近衛内閣の外相として、軍国主義化する日本政府の中で泥沼化する日中戦争に最後まで抵抗し和平の道を探るからである。
 明治・大正の政治家と昭和の政治家の一番の違いは、国際的な視野を持つか持たざるかである。日清・日露戦争の時に欧米諸国に見せた気遣いは支那事変では全く見られず、鬼畜米英として大東亜戦争へ突き進む姿は何度見ても痛々しいが、宇垣はその中にあって(特に陸軍の中にあって)冷静に日本の置かれている現状を把握し日中和平工作を画策するわけである。もちろん宇垣であれ誰であれ当時の陸軍の勢いを止めることは不可能であっただろうが、終戦東京裁判主席検事のキーナンは「真の平和愛好者」として岡田、米内、若槻礼次郎と共に宇垣の名を挙げている。
 そして宇垣と言えばやはり昭和12年の大命拝辞・組閣流産事件であって、この事件は陸軍勢力の権力の確立の象徴として永遠に歴史に名を残すであろうが今もってなかなか謎に満ちた事件なのである。まず我々にとって最も根源的で不可解な謎は、「既に天皇による大命が降下した」人物に対してなぜ陸軍の中堅官僚がはっきりとNOを表明できるのかである。天皇は絶対の存在でありその天皇が指名した人物に対して「陸軍としてはそのような内閣に陸軍大臣を送ることはできない」などといけしゃあしゃあと言うのだからわけがわからない。また宇垣排斥の理由として陸軍大臣時代の四個師団軍縮や三月事件による確執が挙げられているが、しかし宇垣の代わりに首相となるのが林銑十郎では格が違いすぎる(林には既に「凡庸にして無能」という評価が定着していた)のである。
 それにしても大命降下直後の様子というのが滅茶苦茶面白い。広田弘毅内閣総辞職が昭和12年1月23日であり、翌24日夜の8時、伊豆長岡で静養中の宇垣へ宮中より連絡が入る。至急皇居へ来てくれという。「夜分は畏れ多いので、明朝参内します」と答える宇垣に対して侍従長は「お上は深夜でも差し支えない。今から汽車に乗って来てくれ」と言い何と汽車の時間まで調べていたのである。すぐさま街に飛び出し汽車にのって午前0時に横浜へ到着、その後車に乗って京浜街道をフルスピードで走っていたところを憲兵司令官に停められてしまう。その憲兵司令官は「寺内陸軍大臣から、ご報告申し上げろ、ということですから、私が参りました」と言い、有無を言わさず車に同乗されてしまう。
「閣下にこの度組閣の大命が下るそうですが、どうも軍の若い者が非常に騒いで容易ならぬ情勢でありますから、この度は一応お断りを願いたいのであります」
「伝言の趣旨はそれだけか」
「それだけであります」
「それじゃ私から訊いておくが、私がもし組閣の大命を拝して出るということになれば、二・二六事件のように軍隊が動くか。今の話をきくと、爆弾が飛ぶとか、ピストルを打つという話であるが、軍隊が動く恐れがあるか」
二・二六事件のように軍隊が動くということは絶対にありません」
「よし、それだけ聞いておけばよい」
 しかし陸軍の宇垣絶対拒否の態度、国民人気をあてにして宇垣を推薦したはいいが陸軍の頑なな態度に矛先が自分の方に向くのではないかと宇垣に対して距離を置く者などが現れ、遂に大命拝辞という歴史上の大事件が発生するのである。うーん。このあたりはもう面白いやら難しいやらで自分でも何を書いていいのか今ひとつわかりませんな。とにかく昭和戦前史関係の本をひたすら読み続けることにしよう。なるほどこんな本を読んでも何らビジネスに関係ないのだから俺は天下の糞阿呆なのだろう。まあ俺はそんなもんだよ。