『吾輩は猫である』殺人事件/奥泉光[新潮社:新潮文庫]

『吾輩は猫である』殺人事件 (新潮文庫)

『吾輩は猫である』殺人事件 (新潮文庫)

 さて神保町の小宮山書店ガレッジにて本書を購入したのは去年の12月2日であり読了したのはたった今である。諸君に置かれてはどうして買ってから読む迄そんなに時間がかかるのかたかが小説ではないか難解な西洋物理学の学術論文じゃあるまいし全く怠慢にも程があると大いに嘆くところであろうが、吾輩としては諸君の非難に対して合理的且つ明確に反論する術がないのでただただ頭を下げる他ないのである。しかし愚痴の一つでも言わせて貰えば何も吾輩は意図的に怠慢になろうとしているのではなくて、ただ優先順位の高いものから順々に片付けていったら今日になってしまっただけの話なのである。
 題名からも大方察しがついておるだろうが、本書は夏目漱石の「吾輩は猫である」のパロディ的作品である。いやパロディという言葉を使うと何かコメディチックな感じがして本書に失礼になるかも知れんが吾輩の極めて少ない語彙集には他に適当な言葉が書かれてはおらんのでやっぱりパロディなのである。他にも猫のホームズやら夢一夜やらタイムマシンやらが戦国時代の群雄割拠の如く噴出してまことに華やかで結構なことではあるが大層読むのに時間がかかったわけである。ストーリーが明治時代を生きる名無しの猫君の一人称によって語られているところも平成の糞煮込みと言われる吾輩には慣れるのに時間がかかったのであるが、あまり愚痴を言うといつの間にか愚痴を言ってこそ吾輩らしいと思うようになるので以後毅然とした態度をとることにしよう。
 残念ながら吾輩は夏目漱石作「吾輩は猫である」を読んでいない。「明治のラブコメ」と言われる大傑作「三四郎」は三回ほど読んでいるが、よく考えれば吾輩は「三四郎」以外夏目漱石の作品には全く触れておらんのである。しかしそれは至極当然であって、世の中をひねくれた歪んだ目で見る青年吾輩が「高等遊民の文学」のイメージの付きまとう夏目先生の作品に手を出すはずがないのである。もちろん夏目先生の作品を読まずとも本書を読破するのに何の障害もないが、やはりこういうものは原典を知っていた方がより楽しめるというもので、つまり吾輩は損をしたのだろうか。はて吾輩は何を言いたいのか知らん。愚痴を言わないと余計おかしくなるのか。
 本書は明治時代の高級知識人(いや知識猫か)たる名無しの猫君の一人称で書かれておるから読むのに時間がかかったと先程述べたが、これは何も猫君の語りが下手なのではなくその語りがあまりにも流麗で鮮やかで軽妙であるから下品粗野にして無学大食の巣窟たる吾輩は思わず尻込みをしただけの話である。確かに戦前の知識人(いわゆる一高・帝大卒)というのは和洋中を完全にマスターして(料理技術ではない)やっと一人前ということは小耳に挟んでいたが、これほど鮮やかだとは思わなかった。このような感じである。「征露戦役の二年目にあたる昨秋の或る暮れ方、麦酒の酔いに足を捉られて水甕の底に溺死すると云う、天性の茶人的猫たるにふさわしい仕方であの世へと旅立った筈の吾輩が、故国を遠く離るること数百里千尋の蒼海を隔てたユーラシアの一劃に何故斯くあれねばならぬのか」。
 しかし殺人事件を猫たちが推理すると思って読んでいたところが途中から急に幻想小説の如き妖しき世界に迷い込み、かと思えばラスプーチンの陰謀や社会主義革命のための秘密兵器が開発されるというともすれば滅茶苦茶な展開には正直なところ吾輩も面食らってしまった。もしかすると本作はSFではないかと思っているところへ古代エジプトの猫文明及び時間旅行によって真相が判明するのであり、吾輩はこの驚天動地にして唐突奇怪なる物語展開を良しとするがこれはなかなかに天下の意見の分かれるところであろうと思われる。だが吾輩に言わせればそもそも猫を語り手にしていることが既にSFなのでありここは一つ明治の幻想浪漫譚として諸君も大いに楽しんで貰いたい。
 ああ疲れた。次回から「俺」に戻します。