元刑務官が明かす 死刑のすべて/坂本敏夫[文藝春秋:文春文庫]

 おお。これは珍しい今日は金曜日ではないか。金曜日の夜の仕事帰りに上司同僚と飯を食って23時頃家に帰って風呂に入ってブログを更新し明日からの三連休に自然と顔もほころぶこれこそ東京一人暮らし生活の醍醐味というやつである。そこで今の俺に必要なのは癒しであると言いそうだが(考えてみれば俺はもう十年ぐらいそればっかり言っとるが)いやいや今年の俺はあらゆるものにレジスタンスするのである。頑張りますので頑張ります。
 1月4日に三宮の超書店MANYO神戸三宮店で人々の拍手と憎悪を受けながら買った本書は死刑について語られたものである。一口に死刑と言っても刑務官と死刑囚だけでことが済むわけではなく、その拘置所の幹部や法務官僚、マスコミ、死刑囚支援ボランティア、被害者・加害者家族等を巻き込んで刑は執行される。そして少しでもその死刑と死刑囚に関わった人々は口を塞ぐという。
 命というものを国家という強大な力によって奪い、死を強制するのが死刑である。もちろん死刑囚というのはそのほとんどが極悪非道の犬畜生のような奴らでありそのような人間を死刑に処するということに何の疑問もないが、それでも人を殺すということには強い疑問を感じるのではないだろうか。特に本書には死刑を執行する刑務官が如何にして死刑囚と接し死刑の準備をして、そして執行するかが詳細に描写されており、ページを進める度に緊張してしまうぐらいである。
 死刑囚の中には教誨師の教えにより自分の罪を悔い、静かに執行の時を待つ者がかなりいるという。また刑務官もその死刑囚をせめて死ぬまでにはまっとうな人間に更正させたいと熱心に改心させる。そして時がくれば法務大臣の命令により殺すのである(この場合「殺す」という言い方は適切ではないのかもしれんが、しかし間違いではないからやはり「殺す」のである)。自らの罪を悔い被害者への懺悔を捧げてきた死刑囚を毎日のように見てきた刑務官たちは一体どんな思いで刑を執行するのだろうか。そしてどのような理由であれ強制的に人の命を奪うということは何を意味するのか。俺はそこに恐ろしい闇を見る。「原罪」と言ってもいいほどのどうしようもない文明の闇か。いやいやそんなどこかで聞いたような適当なことを言ってはいかんのだ。
 刑務官は普通の社会人であり、親もいれば妻子もいるわけである。職務とは言え人の命を奪う行為などしたくはないだろう。首に縄をかけ、手足を縛り、スイッチを押す。突如として死刑囚の下の地面が開かれ、身体が宙に吊り下がる。断末魔、痙攣、吐瀉物。その間、所長や刑務官はその様をじっと見るわけである。死刑は執行され、一つの命が強制的に奪われた。その時、そこに居合わせた人々は何を思うのだろう。ましてや冤罪であったなら、刑務官たちにとっては地獄である。
 俺には難しい事などわからないので人を殺すような奴は捕まえて殺してしかるべきであるとしか思わない。ただ一方で人を殺したのだから仕返しに殺してしまえという論理にも違和感を覚える。とは言っても実際に死刑をなくすとなるとそれにも違和感を感じてしまうのである。しかし自らの罪を悔い被害者への一生の懺悔を誓う人間でさえも殺してしまわなければならないのか。いやそれでは話がそれてしまう。ここで考えるべきなのは国家が応報的な刑を定めていることが問題なのではないのか。いやいや俺が言いたいのは、死を強制することが法律上可能であり、多くの刑務官や関係者たちを傷つけながらもなお「死刑」が成り立っているこの日本という国の得体の知れない闇である。