焚火の終わり(上・下)/宮本輝[集英社:集英社文庫]

焚火の終わり(上) (集英社文庫)

焚火の終わり(上) (集英社文庫)

 宮本輝の小説を読むことは人生をより深く、より豊かにさせることである。これは確かだ。「文学は人生の地理歴史を教えてくれる」などとは思わぬし「純文学よりも俺の心の闇の方がよっぽど純文学的だぜ」と本気で言うような俺だが、それとは全く別個の考えとして俺は宮本輝の小説はどんな人生論よりも人生論的で、生きるための糧として読んで損をしたことなど一度もないと自信をもって断言できる。
 思えば1999年の第一次大病戦争とほとんど同時期に俺はいわゆる文学を齧り始めた。もちろんその時からラブコメに夢中であったが、本格的にラブコメへとなだれ込んだのは実は2000年からであり1999年高校二年の俺は貪るようにして文学に傾斜したものである。高校二年と言えばただでさえ多感な年頃であるのに、その頃俺は今なお続く原因不明の耳の病気に悩まされ極度に臆病になり毎日が不安であった。不安と鬱に悩まされ夜になるとわけもなく大型古本屋に行っては105円の本を買い漁る日々が半年ぐらい続き、貪るように本を読んだものである。貪るようにして本を読んだのはただ病気の恐怖や将来への不安といった憂鬱な現実から逃避するためであったが、しかし俺は同時に村上春樹村上龍宮本輝等の現代文学の作品に触れ、今振り返れば大人の階段を登っていったのだ。
 それは通過儀礼だったのだと考えられるようになったのは最近である。世の中には、本を一切読まず漫画か車か酒か合コンにしか興味がない奴というのが本当にいることを俺は社会に出てはじめて知った。彼らの人生は彼らのものであるから何も言うまいが、俺はそういう風にはならなかったのでありそのことは密かな誇りとしてある。そして宮本輝の小説を読まずに人生を語るなど俺にはできない。
 2月24日にBOOKOFF十条駅前店にて買った本書はもちろん面白い。最近政治やSFや日本ラブコメ大賞に没頭してこのような名もない庶民が現実の日々の生活を真面目に生きる姿を映す物語に飢えていたのか一日で読んでしまった。市井の人々が仕事や人間関係や小さな事件の中でふと思う「人生の瞬間」が、静かに穏やかに行間に無駄なく簡潔に書かれる技術はまさに職人である。また本作の主題の一つである、登場人物の何人かが特殊な性癖を持ちながらそれが全く異常ではなく「それこそが人間の証明だ」とさえ自然に思わせる作者の描写は優しくて含蓄が深い。但しやたらと酒や食べ物が出てきたり大事な相談をする際には必ず料理屋や料亭に行ったり次から次へと人と人を経て主人公たる男女が色々な出会いをしていくというのは俺にはあまり好ましくなかったが、まあ普通の大人というのはこのようなもので俺がまだまだひきこもりの社会経験の浅い子供だからそのように思うだけなのかもしれない。以下の文章は本作中に出てくる、人生への苦味があって優しい言葉である。俺はまだまだお子ちゃまだ。
「女には、もっと好きになるために、あえて肉体の関係へと進んでしまう性癖があるのだと思った」
「表情にも物腰にも、気楽な自由人といった柔らかさが感じられるのだが、そこはかとない崩れも漂わせていた」
「自分だけが隠し持つ秘密の快楽を燃料にして、そこから聖なる何物かを生み出す」
「強気で運まかせか。それがでけへんから、みんなサラリーマンをやってるんや」
「人よりも優れた点もなければ、特異な才能があるわけでもない。自分は極く普通の平凡な男だ」