11 満州辞典

 わはははははははははははははははははははは。
 ほら見ろそら見ろ。あんな目立つ事ばかりしているからこんな目に遭うのだ。腰を低くして頭を下げて12時の鐘が鳴るまでおとなしくしておけばいいものを理由なき反抗を繰り返すから保守勢力の集中砲火を浴びてしまいには逮捕されるのだ。一体誰が権力を持っているのか、何が自分の周りに蠢いているかを知ろうともせずただひたすら金と株と資本の論理を振りかざして百鬼夜行の日本の界隈を無事に過ごせるはずがないのだ。永田町には妖怪が住んでいるのだぞ。これは決して比喩ではない。
 まずおとなしくすることだ。敵を作らないことだ。そのようにして自らの野望と復讐の機会をずっと待つのだ。誰もが証券取引法を破っているのに捕まらないのはおとなしく狡猾に権力と良好な関係を保っているからだ。当たり前だ。権力に従順な人間は相応の恩恵に預かることができるのだし、大体権力に打ち勝つには真っ向から対抗するのではなく計算し尽くされた計画が必要なのだ。歴史はそのようにして動いているのだ。それにしても今や不条理なほどメジャー嫌いになり昭和懐古趣味に走りIT企業とかITベンチャーとかいう文字を見ると吐き気がする俺には今回のライブドア事件は大層愉快であった。ITバブルの寵児が一夜にして容疑者。ああ愉快爽快。こう言うとまたしても人間のクズと言われそうだが、要するに俺は怠惰を貪るひきこもりなのだ。ああ昭和は遠くになかりけり。
 今や明らかに異常とも思える自己過信と自己陶酔に浸らなければ昼の自分を維持できないという非常事態、ついには胸ポケットに辞表を用意して出社する日々に救いは来るか。来ないのか。来ないんだろうなあ。社会の荒波は全てが恐怖。もはや頭のてっぺんまで恐怖の虜。身動き出来ず息さえ出来ぬ。全ての混沌と狂乱を暴露して逝こうオールナイトラブコメパーカー「脱走と追跡の読書遍歴」。
  
はばたけノブ/あや秀夫秋田書店少年チャンピオンコミックス]

 本書は2003年8月24日に兵庫県の糞田舎のど真ん中にそびえ立つ某大型古本屋で105円で購入したものであるが、初版発行は何と1981年である。1981年。俺の直属の上司が1990年入社だからまさしくタイムスリップである(2005年10月29日参照)。そうかあの阿呆上司がまだ中学生ぐらいの時に本書は発売されたのか。過去は偉大だ。本題がそれた。いつもそれてしまうのだがとにかく2003年という年は俺にとって大変態重要な年であった。
 2001年、それは俺の人生史に深く刻み込まれる暗黒の年であった。数々の地獄を味わい辛酸をなめる罵倒すべき日々の連続であった。だが2002年の春の訪れと共に事態は風雲急を告げるように好転し、この年の春以後有名な「明石三宮梅田を占拠し酒池肉林を貪る日々」がやってくるのである。これがいわゆる第一次絶頂期であるが、2003年もこの快進撃は維持されひどい時は一ヶ月大学に行かず豪遊したりしたのだが(豪遊=本屋古本屋図書館で一日を過ごすこと)、それも夏頃になると事情が変わってきた。俺は今でもはっきりと覚えているが、2003年の夏頃より急速に「秋葉原」「萌え」という文化がメディアその他でクローズアップされてきたのである。これにより今までは「マニアだけのための」楽しい空間であり大人の趣味としての「オタク」を愛する人たちが大事に大事に抱えていた「謙虚さ」と「静けさ」が三宮センタープラザ街や梅田地下街のオタクショップからポッカリと穴が空いたように消え去り、我が青春の地である三宮オタク街は露悪的に騒音的に明らかに俺とは違うベクトルに変貌していったのである。これにより2003年夏頃からはいわゆる「黄金コース」である明石・梅田・三宮紀行から「自転車コース」である兵庫県の糞田舎大型古本屋5連発にシフトがなされた。ベッドタウンである俺の故郷はそれこそ大型古本屋が豊富にあり、わざわざサラ本を買わずともこの古本屋地帯をハシゴすることにしたのである。ちょうどこの本を買った時期がその「転換期」なのである。
 前置きがえらく長くなったが、そのような複雑な時期に買った本書は連載当時1981年における学園青春漫画であり、携帯もインターネットもなかった誠に牧歌的な俺からすればうらやましいねたましい物語である。ああ何故俺はこんな時代に生まれたのだ。それはともかく主人公は思春期を迎え周囲の変化に戸惑う平凡な特徴のない中学生である。当然周りには浮いた噂も囁かれるのだが主人公は平凡を絵に描いたような少年であるからどうということはないがそこはもちろんラブコメであり転校生の美少女に話しかけられたり(もちろん初対面)するのである。その美少女の言動たるや1981年当時ではどれほどインパクトがあったことだろう。素晴らしい。一例を挙げるとこうである。まるで電車男のようだ。
「○○くん、○○くんってば」
「な、何?僕になんか用?」
「ねえ○○くんは何か運動部に入ってるの?」
「いや、僕は別に何も…。な、なぜ?」
「○○くんが入っているクラブに私も入ろうと思っていたのよ。じゃ、私も入るのよそう」
「じ、自分の意志で好きなクラブに入ればいいじゃない」
「知らない人ばかりのところはどうもね」
「ぼ、僕だって知らない人の一人じゃない…」
「でもあなたは○○くんでしょ。私は◇◇よ。ほら知らない人じゃないじゃない」
「…」
「私、この町初めてよ」
「…」
「この町初めてだって言っているのよ」
「き、聞こえてるよ」
「だったら『じゃ案内するよ』『どこか教えてあげるよ』とか言ってもいいのよ」
    
住めば都のコスモス荘阿智太郎電撃文庫
住めば都のコスモス荘矢上裕阿智太郎メディアワークス:DENGEKI COMICS]



 今現在からさかのぼること実に6年と3ヶ月。遥か遥か昔に俺は高校二年生であった。1999年。あの発作が起こった年である。その1999年の10月の中間テストが終わった金曜日の放課後、まだ明石のジュンク堂書店ダイエーではなく十字路の交差点角のビルの中に入っていた時に本書(電撃文庫版第一巻)は購入された。まだ20世紀だったあの頃、絶望の淵にあり躁と鬱を繰り返していたあの頃を思い出す度に糞袋である俺の人生を想う。実際にはその3年後に青春の絶頂期を迎えるのであるが当時の俺はもちろんそんなことは知る由もなく、ただひたすら自らの不運を嘆き悲しんでいた。自分には人並みの青春など訪れないとわかった時俺は憤怒し自ら進んでそのような「人並みの青春」を放棄した。その時から俺にとって恋や友情や若さや元気や明るさといった青春の代名詞は唾棄すべき嫌悪の対象となったのだ。では何を求めて生きていくのか。今も変わらぬその決意はただひたすら「孤独と書物の中で生きる」ことであり、本書を読むたびに俺の人生の原点であるその決意を思い出すのである。
 とは言え本書自身は気楽なラブコメである。文体や文章構成ではなくコメディのノリを軸に話が展開していくのだから当然数々の綻びが見えるが、それでも読むに耐えうるのは本書がラブコメだからである。しかも作品内で主人公のその地味さ平凡さをボロクソに書いておいて登場する女性たち全員にもてるのだから素晴らしい。どうしてこんな面白い作品がわずか2年たらずで終わったのかとも思うが、軽いコメディにもかかわらず設定が複雑かつ扱いにくいので仕方がなかったのだろう(俺もうまく説明できない)。強いて説明すれば仲のよいアパートの住人たちは実は敵同士でありしかし住人たち自身はそれぞれの相手の正体に気が付いていないということなのである。なるほどこれを基本設定にして話を毎月毎月展開していくのは確かにしんどい。しかしエロゲーならともかく普通の作品である以上はやはり作品世界設定というのは重要なのである。それが平凡な人間にも振りかかりそうでかつ現実的・具体的であればそれだけ読者と俺の関心を惹きより面白くなるのである。そしてもちろん主人公は平凡な男でなければならない。ヤンキー女に義理の妹に小学生に眼鏡っ娘に年上のダイナマイツバディー。
 メイド喫茶も五反田のホテルヘルスも所詮俺には似合わない。陰湿に貧乏に孤独に自分だけの世界に沈めば、今、全ての恐怖が去る。
    
次週予告:「歴史への招待2 梅田水力編Ⅱ」