4 ルビコン川会戦

それは間違いではありますまいか。かの人は確かにあの森の中に入ったはずです。ええ、私ははっきりと見ました。あの人です。あの恐ろしい獣たちがいる森へ。何ですか。最近では皆さん日記を書かれるようですなあ。それも自分の生活や思ったことを赤裸々に書くわけでもなく、かといって何か面白い読み物を提供するわけでもなく、身の回りの出来事とやらを精一杯戯画することによって自らの存在を華やかなものにしそして他人の好感を得ようとするわけですか。日本全国に文章を公開しメールアドレスを公開してはや20日。ホモはいかんレズはいかんと書けばたちまちやってくる迷惑メール荒らし嵐。ラブラブ和姦でいこう鬼畜凌辱はいかんと書けばたちまちやってくる迷惑メール荒らし嵐。な・ぜ・だ。ははあ。それで、あなたは自分を安心させるためにそのようなものにこだわるわけですか。自分のような情けない主人公を。ほおう。今や独裁者は地に堕ちた。何を言うか独ソともに独裁者だろうが。そんな奴と手を握って何が民主主義陣営だ。月曜日といえば瞳の奥の真実、「脱走と追跡の読書遍歴」。
    

ルサンチマン花沢健吾小学館ビッグコミックス


今のところ一巻しか持っていないが、それでもこの作品には十分魅了された。まさしく平凡にして落ち目という言葉がピッタリくる30前の男が、ふとしたことからバーチャルの世界に触れその中では既に最初から自分に好意を持った仮想女性と恋愛その他なんでもできると知り、「現実の女をあきらめる」というところから物語は始まる。これは素晴らしい。特に主人公である冴えない男の生活描写がまことにリアルで、男の短パンから横チンがはみ出ている絵など絶対女には書けないだろうがこれほど男の哀愁を痛切に表現しているものはない。しかし男にとって横チンがはみ出るなどということは日常茶飯事であるのにどうして今まで誰も書かなかったのだろう。主人公はバーチャルで束の間の快楽を味わい、しばらくして現実に帰ればまたしても面白くない日常が待っているのであり、その「落差」の描写が具体的にキャラクターを使って二元的に表現されているので説得力がある。そしてその現実と虚構の「落差」をイヤというほど味わえるのは本書において他にないのである。この「落差」こそが、我々オタクが感じるあのゾクゾクするような背徳感なのだ。ところで主人公がバーチャルの世界に触れ現実に帰ったあと、周囲の(現実での)女の醜悪さに愕然とするという描写があるが、そういえば俺もはじめてエロゲーを知ったときこのような感覚に襲われたことがあるなあ。いや何もこれを読んでいる女性諸君をどうこう言っているわけではなくてですね、ほらあの「土曜日の女」が来たらまたややこしいので次に。
   

みゆき/あだち充小学館小学館文庫]


2001年。偶然にも関西のとある大学に合格した俺は定期という名の欲望を使い三宮そして梅田を縦横無尽に駆け回り小便をぶっかけられ18年間暮らした糞田舎とはまったく違う別の国で大いに恥をかこうとしていた。時は21世紀であり時代の流行が求心力を失う中で異常なまでの負のエネルギーを持つ秋葉原軍及び俺が人々に好色の目で見られていたこの頃、妹たち12人のアニメだか小説だかゲームだかわからんまあ一つの作品「シスター・プリンセス」が叫び声をあげていた。その叫び声に吸い込まれた多くの人々の中に実は俺もいたのであり案の定シスプリはラブコメとしても非常に優れた作品であったのだが、何とその20年前にはもう妹ラブコメは世に生まれていたのである。おお何という事だ俺が生まれる前に既に。ラブコメが。というわけで前置きが長くなったがこの作品、熱血正義友情が満ち溢れていたあの時代から今日俺がその存在を知るまでよくぞ生き延びてくれた。ああよかった。え。アニメにもなったと。はあはあこのような平凡で何のとりえもない優柔不断な青年が、にもかかわらず美人の妹と偶然にも手に入れた恋人に囲まれるという俺にとっては文句なしの作品が、アニメにもなったと。それはいいことだ。みんな立候補してこそ自民党。しかし我が派は中曽根支持でいくああいや違う何の話だそうだ「みゆき」だ。いやもう言うことなしであって、妹とはいっても義理である。で、兄はその事実を前にオロオロする。一方妹の方はといえば義理であることを知っているのか知らないのか、ことあるごとに兄にくっつきヤキモチを妬く。ただしその行動は非常にスマートでさりげないので、今のシスコン描写に慣れている諸君には不満かもしれぬがそのさりげなさがかえって兄への思いが本気でありかつ根深いことを窺わせるのである。他にも主人公には棚ボタ式に手に入れた恋人がいるのだが、残念ながらこちらの方は焦点である妹と対比するため以上の活躍は与えられていない印象を受ける。もちろん「二人の女に囲まれる」という雰囲気は十分に醸し出されておりそれこそが俺のいうラブコメなのである。毎度のことながら恥ずかしい物言いだな。大人の階段のぼる君はまだシンデレラさ。
       

まぶらほ築地俊彦宮下未紀駒都えーじ角川書店:角川コミックスドラゴンJr]



さて今から書くことは俺とap38さんとの合作である。ただしこの文章に関する一切の責任は俺にある。俺は今から、もちろんこの「まぶらほ」について書くのであるが、しかし比較的他のオタク向け作品群のなかで売れているであろうこの同作品について語ることを通じて、今のいわゆるオタク向け作品及び一般向け作品のある一つの傾向について語ることにする。かなり過激な表現が出てくるが、まあしばらくお付き合い下さい。この「まぶらほ」自体は優れたラブコメである。どう優れているかというと主人公たる青年は見た目は落ちこぼれであるが実は大変な力の持ち主であり世界を操ることさえ可能なのである。この、「阿呆に見えて実はものすごい」というのが俺のような世間から糞虫蛆虫のように見られている男には愉快なのだが、それに加えかなり格式のある先祖がいることから「遺伝子が欲しい(要するに子供が欲しい)」と女が群がるのである。これはこれで一つのラブコメの手段としてよろしい。「こんな冴えない奴誰が好きになるか」が、「でも、すごい遺伝子を持ってるなら」ということでラブコメ展開になるのである。それもまたいいだろう。主人公が「わしゃタネウマか」と怒るのも普通の感覚だ。だがその後の、他のキャラクターたちによる展開(あの2年B組とかいう)が阿呆らしくて読むに耐えないのである。作者はコメディを狙って書いたのであろうが、俺からすればそのあまりの傍若無人厚顔無恥さは耐え難い。なるほど作品世界では魔法というものがあり、だからこそこのように「欲望丸出し」の滅茶苦茶な人物の滅茶苦茶な展開が繰り広げられるのであろう。しかしその作品世界に登場する人物たちは前提として我々と同じ思考形態をしており我々と同じ日本文化圏の中にあり三食を食べトイレにいき夜は寝るという、つまり俺及びその他のこの現実にいる人間の延長線上にある人間なのだろう。であるならばだ、思考回路も我々と同じなはずなのだ。その欲望も罪悪感も良心の痛みというものも我々と同じ感覚でなければ意味がない。それを作り物だから、コメディだからといって荒唐無稽な人物設定を行いその設定に応じてひたすらリアル感覚から浮遊する物語を書いてその行き着く先は何なのだ。つまり俺は、二次元世界を描写する上でもそれは我々三次元の者を納得させる描写でなければならないと言いたいのである。なぜなら我々は三次元の人間であり三次元的な論理でしか物事をはかれないからだ。要するに「まぶらほ」及びその他の作品群に見られる、人物設計のあまりの荒唐無稽さに俺は怒っているのである。まあ俺一人怒ったところでどうしようもないが、萌えだとかエロだとかを優先させてその他の物語の骨格部分(世界観や人物描写)には目もくれないというのならそれは大変なことだ。更に言えばあの、オタクやマニアを疫病か何かのように扱い、捨てキャラ扱いする漫画が、何とオタク向け作品にも見られるのである。何だそれは。諸君はマゾなのか。いやそういう問題ではなく、たとえば時代や流行から超越してただひたすらエロゲーなりラブコメなりを求める自分(あ。俺のことだ)というものに誇りはないのかね。つまり自分たちがオタクであることを自覚するのであったら思いっきりオタクがもててもてて困ってしまうようなものを書いてはどうなのだと言いたいのである。非オタクが自分たちを疫病扱いするからといって自分たちも「へへへ。疫病です」といって自嘲的になってどうするのだ。そうでなければこのまま本当に疫病扱いされてしまうぞ。その昔SF作家たちがいわゆる文壇から嘲笑の的になった時があったが、彼らはSFを書くことに誇りを持ち決してSFに対して自虐的になることはなくかといって文壇にオベンチャラを使うわけでもなくただひたすら確固とした「日本SF」を築き上げようとした。諸君もそのように自らの文化に誇りを持って、「オタクがもててもてて困ってしまう」ものを書いてくれ。今のところそんな作品は「ふぁにーふぇいす」ぐらいだ。まあ誰も書かぬなら俺が書くが。ふう、水をくれ。うむ。で、この「まぶらほ」及び他の作品にも言えることで問題なものの第二は、あの、ああもう腹が立ってきたが、あの「影の生徒会長」もしくは「権力の二重構造」というやつで、そうですあのヒロインの一人が言う「何事も決めるのはあたし」「生徒会長は私の傀儡」というやつです。…。一体何だねそれは。何だねその権力然とした描写は。それを描いて一体何が気持ちいいのだね読んで何が気持ちいいのだね。いや確かに気持ちよさを求めて読むわけでもないが、そのような権力ぶった描写は作品展開上必要なのかねまたそれを読んで何とも思わないのかね。ほらあるだろう「12歳で日本政治を裏から支配している」とか「この財閥のお嬢様こそが世界の軍事機密を握っております」とかいう糞阿呆らしい話を真面目にしている糞作品群が。読んでいてこれほど腹の立つものはなく、俺などはこの描写に出くわした時には所構わず本を投げ捨てるのが常なのだ。現に昨日も三宮の本屋(エンジョイスペースギルド)でそれをやってすぐに逃げたのだが、まあともかくだ、そのような権力的な振る舞いを描写することによって作者は一体何を言いたいのかがさっぱりわからんのである。これはもう「まぶらほ」の話ではない。他の全ての作品に言えることである。何度も言うが、我々と同じ文化圏にあり同じ思考形態をし我々と同じ社会システムにありながら「生徒会長は私の傀儡」だと。「首相よりも権力を持っている人」だと。阿呆か。そんなことを気軽に書かれてはたまらぬわ。それはフィクションの限界を超えている。というよりそのような強大な権力がたとえ二次元でも存在すると思いまたそれを前提として話を進めているのがそもそもおかしいのだ。読んでいて何とも思わんのか。現実をモデルにし現実をベースにした作品がなぜそこで突如浮遊するのだ。登場人物が三本足で顔が二つある宇宙人の話なら俺だって素直に「そうかこの学校の生徒会長はヒロインの傀儡か」と読み進めるが、顔も生活習慣も思考も日本文化下の日本人がいきなり「生徒会長なんて私の傀儡よ」などと言いそれを読んで何の違和感も感じないのはそれはもう重症だ。たとえば「この漫画の登場人物は顔も思考形態も文化観も社会システムもあなたと同じ日本人ですが、食事摂取方法は少し変わっておりまして、肛門から水を入れるのです」といい実際にそのような描写がなされていたら諸君はどうするのだ。俺にとってはそれと同じことが、現実に起こっているのだぞ。ああだから日本人の政治レベルは低いのだ。もう完全に政治の話になってしまうが、権力などというものは一つではない。何でもかんでも首相や大統領の思う通りにいくのなら政治などあってないようなもので、時に大臣が時に自民党幹事長が時に最大派閥のオーナーがそれぞれの力を持って物事にあたり結果妥協策となってあらわれるのが政治である。それは社長にも校長にもそして生徒会長にも言えることだ。ああ腹立たしい。俺にはそのような「奥の院」「影の支配者」主義の考えの発端がわかっている。日本人は、選挙という国民の顔色を絶えず気にするような弱い指導者よりも、「影の支配者」のような強い指導者を求めているのだ。だからこそこのような、「影の権力者」などという描写を好むのだ。それも40代よりも30代、30代よりも20代と年齢が下るにつれてそのような反民主主義的傾向が強いのだ。ああ、それは大変危険なことだ。あれっ。俺は何の話をしておるのだ。いやいやとにかく荒らしコメントや頭のネジが緩んだようなメールが大量に降りかかろうとも俺こそがラブコメなのだ。諸君よどんどん反論を送ってきてくれ。